創造における馴質と異質についての考察      1997年 ヤルデア研究所 伊東義高  

Considerations on “the familiar” and “the strange” in creation 人類の文明・文化は何といってもそれが創造的所産であることである。動物的学習は過去体験と同じもの(馴質) を獲得するか敬遠するかによって、同じ成功を反複し、同じ失敗を回避する「馴質再生」である一方、創造的思考 は過去体験と同じものだけで判断するのではなく、それとは異なるもの(異質)についても類比することで、新た に「馴質創生」する異質結合である。この馴質と異質は客観的・物理的評価ではなく、生物進化、社会文化、個人 発達の各段階によって異なる主観的・心理的価値である。馴質と異質についての考察は創造的企業風土の醸成や創 造的青少年の育成などの底辺に関わるものである。 (1) はじめに  創造の理論的定義の一つは「AとBとの結合によりCを作る」ことである。(Aは被類比物・ヒントであり、B は対象物・テーマであり、Cは創造物・クリエイチャーである)A,Bの関係は次のとおりである。 @ A=B 同じ(same) A A≒B 似ている(similar) B A≠B 違う(different)  創造の95%を占めるといわれる類比発想におけるAとBとの関係はAの「似ている」であるがこの奥行きは深 く、個性差は大きい。  創造には必要を満たす実用性のほかに変わったもの、珍しいものを喜ぶという快感情の報酬がある。この快感情 は人において特に著しく発達したものである。実用のためだけでなく快感情を呼ぶ遊びのために創造的思考を多用 ・乱用してきたことが人の創造性発達に大きく寄与している。創造の動機、評価には次の2面がある。 ・新奇性,変わっている(unique) ・有用性;好都合である(effective)  新奇性とは新生されたCと母体Bとの相違性である。このBとCとの間には次の関係がある。    @ B‐C 大同小異(つまらない) A B‐C 中同中異(おもしろい) B B‐C 小同大異(おそろしい)  創造物が珍しい・変わっていると受け入れられるのはAの中同中異であるが、その幅は時代、社会、個人によっ てかなり違う。過去体験に対してSameと大同小異は「馴質」であり、differentと小同大異は「異質」であると大 雑把にはいえる。しかし、similarは場合によってはsameとなったり、differentとなったりする。中同中異は人に よっては大同小異になったり小同大異となったりする。  創造は自然界やコンピューターが作ったものではない。アメーバーから進化してきた生物の所産である。「馴質」 と「異質」を辞書に依らず生物学や心理学を踏まえた創造学的なアプローチで考察してみる価値はあろう。 2.YES/N0、馴/異の起こり  人間の環境は複雑で多種多様なものに囲まれている。また人間の体内も複雑で多種多様 な物質を必要としている。人間は大きな口を開けて多種多様な食べ物を取り込む。 約30億年前の原始の海は単純で溶融・浮遊している物質の種類も少なかった。原始における単細胞生物の体の構 造は至って単純で必要物質の種類も数少ない。一重の細胞膜からなる表皮に開いている小さな穴から入る物質のみ を取り込んでいた。穴を通ることが出来る分子量と物性を持つもののみが餌であり、OKであり、YESで、人ら ない物は不要物であり、NOである。  ハードウエアー的に設計されたものと全く「同じ」ものだけが「馴質」で、それ以外の全ては「異質]なのであ る。その中間はない。実に単純な「OR原理」てある。  時代が下って原始の海の要素・様相も複雑になると生物界にも変化が起きた。その一つが単細胞生物の寄生や吸 収合併・対等合併などによる大型化・複雑化である。体内構造の複雑化は必要物質の多様化を招いた。体内に取り 込む餌の分子量や物性が複雑化したので、特別な大型取り入れ孔(つまり口)を設け、雑多に入り込む物質をいち いち味見・吟味して取捨選択することとなった。  餌としての合格基準は幾つか決められてはいたものの、口に入ってくろものは実に多様で、基準値(馴質)と 「同じもの」のほかに、少し違うものから大きく違うものが多く混在していた。少し違うもの(馴質’)、つまり 「似ているもの」が問題となった。少々の異質度なら複雑化・高度化した体が対応でき、問題は生じなかったが、 相違度がある程度以上になると体が対応できなくなり(消化不良)、時には支障をきたす(毒作用)ことがあった。  問題のない前者は「馴質]として「OKマーク」をつけてもよいが、問題を起こす後者は「異質」として間違い なく「NOマーク」を付けなければ生き残っていけなかった。  生物にとつてその環境は自分にとつて都合のよい餌や味方ばかりではなかった。多くの敵がいた。弱い敵は撃退 し、強い敵は回避しなければならない。これらの行動群を迅速に正確に行うためにホルモン制御による情動〜感情 が生まれた。  接近・獲得するものに対しては「快い…ドーパミン」を、攻撃・排除するものに対しては「怒り…ノルアドレナ リン」を、忌避・逃走するものに対しては「恐れ…アドレナリン」を配し、前者を「快」「馴質」とし、後者を 「不快」「異質」とする生活行動のOR的構造化を固めていった。生物はその型に嵌まっている限り安心であり、 安定できる。生物は環境が一定である限り、本質的に保守的である。 3.猿人の馴質・異質  長い地質年代には地球上に大きな変化があり、それを受けて生物界にもいろいろな変化・ 進化があった。約400万年前、アフリカのシヤングルに生息していたサル達は突然の大型の気候変化でピンチに 追い込まれた。シヤングルの木の実・木の芽がなくなり、「馴れた」餌がなくなってしまった。止むを得ずサル達 は住み馴れたジヤングルを捨ててサバンナに降り立ち、何か餌になるものはないかとさまよい出した。  ジヤングルにあるものと同じものがサバンナにあるはずはない。バナナはない、マンゴーもない。だが草むらに 赤くて、丸い、手のひら大の果実らしいものが見える。ジヤングルで見たリンゴに似てはいるが違うものだ。  いつもなら通り過きるが、先ほどから腹が鳴っている。手にとってしげしげと見る。リンゴ(A)は美味い(B)。 これはリンゴに似ている(A’)から、同様に美味い(B)であろうという理屈:仮説帰納法(パースのいう発想 法。私は仮説設定法という)を用いてかぶりつく。結構いける。そのまま食った。それからも食うようになった。 サルの脳内では異質分類から馴質分類へと組み替えが行われた。そして改めて“トマト”と名づけられた。こうし てそれまでに若干は備わっていた雑食性に更に磨きを掛けながら、彼らはサバンナから荒れ地・山岳・砂漠へ、更 にはツンドラ地帯へと生息範囲を広めていった。  食住接近のジャングル生活はいつしか山麓部の洞窟を棲み家として、広い草原を餌場とするものに変わっていっ た。メスザルは乳飲み子を抱え、猛獣の目を避けて穴に篭った。オスザル達は遠くまで餌集めに出かけた。採集し た食料を棲み家まで運搬するのが厄介だった。口で咥えられないものもいろいろあった。止むを得ず両手で持って 二足歩行をしだした。シヤングル時代も二足歩行をしたことはあったが、それは一時的であり、遊興的なもので、 敵から逃れるようなときの本格的な地面走行は四つ足だった。  こうして二足歩行に馴れてくると、自由になった両手でいろいろなことができるようになった。もともと、枝を 掴むようになっていた手の指は小石や木切れなどを扱うのに便利だった。道具の使用は生活を多様化・高度化した。 穴蔵にも生活用品が溜まりだし、餌採りも武器(投石や叩き棒など)の利用で狩りができるようになり、考えるこ とやコミュニケーションすることが急激に増えていった。  こうして大脳新皮質は成長し、肥大化していった。充実化した脳は過去学習たけでなく、未来推定する上で多い に役立った。するとまた新しい課題が生じ、大脳に新しい刺激を加えるようになった。  彼らはもはやサルではなかった。立派な猿人となっていた。彼らと同じころにジャングルを離れたサルのグルー プは多かった。その多くは肉食獣の餌食となるか、飢え死にして死に絶えていった。コアラやパンダのような“餌 はこれっきゃない”と今までの生き方を保守していたサルのグループは哀れだっただろう。しかし生物界ではごく 当たり前の自然淘汰である。  環境変化での生き残りの条件は何だったのか、少々の異質なら恐れずに、興味を持って接近し、これを過去体験 のうちの似たものと結び付けてみようかという“非統計学的・独善的な馴質化の欲求”とその結果生じる少し変わ ったものに対する“高評価的・自己顕示的な達成感”にあったのではなかろうか。  つまり好奇心とAha感が決め手になったのではなかろうか、これらはまさしく創造のキーワードである。目の前 の小異質を征服して問題解決をしたいという攻撃欲求(ノルアドレナリン系)と自分が生み出した別の小異質を懐 に取り入れ馴質化する快感(ドーパミン系)であろう。  創造は「怒」と「快」の異質結合ともいえる。「やってみたい」とか「やってよかった」というOK感情、快感 情が必要なことは当然であるが、それだけならば創造は生まれない。  もし、快感情を与えてくれるものに恵まれていたらサルもヒトも創造なんていう不確かな試みをするよりも、過 去体験に照らして確実な目の前のものを飽食するだけである。それが自然であり、合理的である。今、腹が減って いるのにろくな食い物がない。自分がそんな状況にあるということに不愉快な、けしからんという怒り感情があり、 そして一方に自分が何とかすればご馳走が得られるかも知れないという好ましい期待感がある場合に創造の虫が頭 をもたげる。  過去の美味しいものの食べ方と眼前の不味いものの食べ方とを交互に思い浮かべ、そのイメージを脳内で重合し たり結合したりする。なかなかいけそうなアイデアが浮かばないのが普通である。しかし、時にピカッとくること がある。(サルのAha体験についての報告もいろいろある)  幸島のサルのように薯を海水に浸して食った経験のあるサルは熟れすぎたスイカや干からびたドジョウを塩水に 漬けて食うような試みをしたことだろう。そして今までと少し違う味に「オッホ、オッホ」と歓喜の声を上げたこ とだろう。もし、それが道に落ちていて、空腹でやむを得ず食った場合ならたぶん顔を少ししかめながら立ち去っ たことだろう。  自分が何か変わったものを実現させようとそれなりに努力したものはサルでもヒトでも感情移入され親和感を持 つものである。客観評価よりやや高め評価になる。少し変な味でも「まあまあ…」になり、まずまずな味なら「結 構イケテル」になり、仲間に自慢できる。そんなことが重なると何か新しいもの(今までになかったもの、異質な もの)を求めることが好きであるという体質が出来上がっていき、その一部がDNAに転写されていった。  衣食住の全面に創造的試みをしだした彼らはもはや猿人ではなく立派な原人となっていた。しかし、サル〜猿人 〜原人のすばらしい進化の流れの陰には数え切れない創造失敗者の亡き骸があったことだろう。  馴質は過去の範囲において安全を保証するが、その効用も過去の領域を超えない。異質の効用は過去を超える可 能性はあるが、安全性は保証されるものではない。 4.脳内における馴質と異質  現代的医療設備であるPETやMRIなどにより、脳の構造と機能はだいぶ明らかにはなってきたが、まだ、推 定せざるを得ない領域が多い。生物進化の流れを下敷きにしてモデルを推定してみる。  特定の認知対象物については特定の大脳神経紬胞が対応しているといわれているが、一般の感覚対象物は多数の 大脳神経紬胞が作るネツトワーク(閉鎖的回路)によって認知され、記憶される。  今、リンゴの視覚像について考えてみることにする。こぶしぐらいの大きさ、円形に近い形、赤を基調とした色 彩、マッチの軸のような柄…デジタルカメラで撮影してパソコンに入れたら何十万ビットも必要とすることだろう。 次にまた別のリンゴを見るとまた…。トマトを見てもスイカを見ても何十万ビツト、何十万ビット……これでは果 物屋のおやじの脳は半日でパンクしてしまう。  似たことはパソコンの画像処理でもいえる。いくら高密度化したとはいえ、ハード・デイスクにリンゴ、トマト、 スイカ…の全情報量を収納したらすぐパンクする。そこで圧縮技術を使う。その一つは画像をいくつかの属性認識 パターン(大きさ・形・色・付属物…)と若干のそれら属性の要素サンプル群で全体をイメージすることである。 目を閉じてリンゴの像を思い浮かべても完全な情報要素では満たされていない。しかし、それをリンゴとして認識 することはできる。それで十分である。  もう一つは動画像や類似像におけるメモリー素子の共有化である。アニメ映画の原画を1枚ずつ手書きする場合、 全部別の紙に手書きしていたら、手間がかかるし、狂いも生じる。そこで元になる原画を何枚もコピーしておき、 1コマごとに変わる部分のみ修正・書き換えする。90数%は前のコマの原画と共有される。  同じ省資源活動は脳内でのリンゴ・トマト・スイカ…の類似物の認識でも行われる。属性認識パターンや要素サ ンプルで共通するもの(脳内では大脳経紬胞同士の接合部;シナプシスにおける特定レセプターの強化や変質)は 共有することで限りある脳資源の有効利用、高度活用をしていると思われる。リンゴ、トマト、スイカ…と別なも のを順に思い出しても、脳神経細胞の特定のもの(共有されている)は何回も呼び出されている。  この共有技術のおかげで連想や類比が発達し、サルの子孫たちは記憶のネットワーク化や創造的思考がしやすく なった。もちろんその裏側で類事物の勘違い(認知錯誤)や早とちり(判断誤謬)はよく生じた。  この「共通部」「共有部」が「馴質」であり、「非共通部」「非共有部」が「異質」である。この「共通認識」 「共通化」が「概念」であり「抽象化」てある。  n個の客体を1個の認知に集約する脳メカニズムが言語の基盤を作り、思考の高密度化や広域関連度化を促した。 AとBがある。AとBは別物である。「A≠B」だが「A≒B」である。つまり「似ている」=「多馴少異」= 「m個の共通点」ということから、その背景にある属性が想起され、重合化されてAとBの間に、あるいはその上 に、Cというイメージが幻出する。これが創造仮説である。 5.脳内における創造快感  創造と情感の間には前述のように深い関係があるように思われる。「快」「怒」[恐」の3基本情動は「ドーパ ミン」「ノルアドレナリン」「アドレナリン」というホルモン(全身各組織の統御機能物質であり、脳内の情報伝 達物質でもある)により支配されている。  原始生物時代、外的環境に反応するための基本的な器官刺激物質として構造の単純なチロシン(ベンゼン核+OH +NH2+COOH)が用いられていた。よりたくましく生きていくためには、餌、OK物質(馴質)にはより迅 速に接近し獲得することが、つまりより迅速に反応することが必要(自然淘汰では結果優位性)だったので、「快」 対象専用に、チロシン+OH−COOH=ドーパミンを作った。ドーパミンはチロシンよりも毒性が強かった、つ まり効きが良かった、回りが良かった。生き残り易くなった。  中等動物になると生活はより複雑化してきた。逃げる餌や刃向かう餌を追撃捕食したり、自分のテリトリーを確 保し、良い異性をゲットするために害敵やライバルを駆逐打倒する必要があった。より全身を強く巧く奮い立たせ るために、「怒」対象専用に、ドーパミン+OH=ノルアドレナリンを作った。毒性・刺激性は一段とパワーアッ プした。適者生存・優者生存、我が世の春…であった。  生活環境の複雑化は自然環境の複雑化であり、生物環境の複雑化でもある。自分より大きい、強い敵も増えた。 敵だからとてがむしゃらに挑んでいったら生存確率が下がる。そこで弱い敵には相手より素早く攻め、強い敵から は相手より素早く逃げるプログラムが必要となった。そこで「恐」対象専用に、ノルアドレナリン+OH+CH3 =アドレナリン(猛毒)を作り出した。  「快」「怒」「恐」の対象に迅速かつ正確に反射対応できるようになり、生活と生存は一段と進化した。進化の 高等化に伴ない、これら3ホルモンは他のホルモン物質と拮抗、補完、相乗…し合っていった。そして3情動は相 互関連をしたり、知性・理性と結合したりして、より高度な精神清動を生み出していった。  われわれヒトの精神活動はかなり高度化・緯雑化してきてはいるが、上記の流れの上にあることは事実である。 遊び、恋愛、仕事や認知・記億・演算・創造…においてもアメーバー、クラゲ、サカナ、トカゲ、ネズミ、サル… …の流れを踏まえている。  「似ている」「多馴少異」に共感・親和感を覚え、「変わっている」「中同中異」に興味・好奇心を感じ(以上 ドーパミン系)、現状不満を報酬期待のもとに何とかしようという意欲が湧き(ドーパミン系+ノルアドレナリン 系)、着想や成功に白己実現的・自己顕示的喜びに興奮(ドーパミン系)する脳内環境が創造には欠かせない。  創造的思考の前半にあたる拡散思考では特にドーパミンの多動症的な「あれやこれや」「次から次へ」のAND 思考誘発性が大変に役立つ。後半の収束思考ではアドレナリン支配による神経質的な「あれかこれカ」「どれが一 番か」のOR的思考促進性が働く。  拡散思考でアドレナリンが働くと「下手な考えを笑われたら恥ずかしい」と脳が萎縮して発想が滞る。収束思考 でドーパミンが活性化すると案がまとまらなくなる。 6.創造的社会環境  脳内と同様に社会環境が創造活動に大きく影響する。昨今の社会情勢を創造性との関連で概観してみる。  市場に多種多量の商品があふれているが、多様化・個人化の波は二一ズ(needs,顕在需要)およびウォンツ (wants、潜在需要)を一層刺撤している。マスコミなどによる大型風潮・一律化の裏側で、新奇品・中同中異品が 個性差別化戦略のもとに一部では求められている。このような側面からは、時代はまさに創造性発揮には打ってつ けのように思われるが、その反面にいくつかの危惧がある。  文化・文明の高度化・多様化により、乳児から青年期にいたる発達段階で遭遇する経験の種類があまりにも増大 したために、個々の経験について熟達・鉤和するものが少なくなった。「小同大異」「浅熟多様」が進むと「異質 疲れ」を起こし、自ら進んでの好奇・好異は抑え、周囲に順応して無事無難を求める傾向が出てくることである。 @ 落語・漫才の落ちや4こま漫画の落ちは起承転結、つまりAとBの異質結合による創造的問題解決  (新奇性があって、実用性はとぼけているもの)である。しかし、最近の漫才や漫画に落ちの浅いもの、  落ちのないものが増えている。起承転結が演繹法的な当然の文脈になっているものが多い。覚えること  に馴れた脳は新しいものについて考える(類推判断)ことが苦手で、面倒くさく感じて敬遠するのかも  しれない。 A マニュアルは多種多様な条件を整理してばらつきのない結論を導き出す管理技術の要諦である。  「大同小異」「似ている」をも否定して、「同じ」しか認めない強制である。その経過と結果において  効率と信頼を生み出すもので近代産業の基幹である。「標準化」「マニュアル」は「開発」「創造」の  対極にあるものである。  上例の@とAの結合が見られる近代産業に創造性開発の暗礁が生成されつつあるのではないだろうか。合理化・ 標準化と開発・創造とが二極分解していないだろうか。 7.結び  これらの心配に対する一つの提案は「OR理論」と「AND理論」のAND論的競合と「中同中異」の面白がり の推奨であろう。 革命的(OR的変化)ではなく、現状を是認しつつの緩やかな体質改善(AND論的変化)を 全員参画・全員参加型の自社開発の運動を実験的に展開していくことてあろう。  詳しくは「意識改革と創造性」「職場における創造性開発」「技術革新のための好異質性体質」(いずれも本学 会で発表した筆者の論文)などを参照されたい。 8.参考文献 「脳の進化」J.C:エックルス(東大出版会) 「イメージの心理学」M.ドウニ(勁草書房) 「サルはどこまで人間か」江原昭善(小学館) 「サル学の現在」立花隆(平几社) 「創造性の科学」市川亀久弥(NHK出版) 「モノとしての脳」畠中寛(講談社)他 以上

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