図解 創造理論 まえがき           ヤルデア研究所 伊東義高      

 我が国経済は、他国よりも“より良く、より安く、より速く”商品を作ればよかった時代を通り過ぎ、 “新しい商品を、新しい作り方を、新しい使い方を”考え出していかないと生き残れない時代に入って いる。つまり、管理至上主義から創造重視の段階に入っている。  どの企業・団体でも“創造”“創造”と実に“騒々”しい。社長の年頭の辞、壁貼りのポスター…で “創造”の二文字のないものを見つけることは困難である。“創造”という言葉はよく使われる割には、 いい加減に理解されているようである。  手当たり次第に聞いて見ると、“何か新しいものを…考えること?… 考え出すこと?”“つまり… 発明…みたいなこと…でしょう”“芸術的に…何かを作り出すこと?”“天才とか、秀才とかの…する ことでしょう”…とかなりバラバラな答が返ってくる。以前、日本創造学会が学会員に“創造の定義” をアンケートしたところ同様にばらついた見解が寄せられた。  学者はこれを聞いて嘆くであろう。定義一つ出来ないで、何が「創造性開発」か、何が「学会活動」か… と怒りさえするであろう。しからば…と、国語辞典、百科事典、科学事典、哲学事典、心理学事典…と 調べてみても用語や表現方法が難解化しているだけで、バラバラなことをバラバラに言っていることに は変りない。  “創造”だけのことでもあるまい。“科学”“進歩”“幸福”“社会”“人間”…どれも「一語一義」 であるはずでいて、「十人十義」である。「一語一義」の面においてコミュニケーションが成り立ち、社会 の統一的活動が可能になる。そして、「十人十義」の面において主張が成り立ち、社会の活性化が促進さ れる。  学会の一部に残る権威主義者の“○○はかく言えり”の金科玉条や産業界に多く見られるマニュアル 至上主義者の鵜呑み丸覚えや商業主義的出版界のハウツー本のキャッチフレーズ…を全面否定せず、横 目で睨みながら、一人一人が“創造とは何か”“創造と自分との関係”…を覚えるのではなく、自分で 考えてみることがより大切になったご時世ではなかろうか。  私たちは具体的な事物については感覚的にも理性的にも認識し、イメージ・言語の統一的な理解像を 形成する。しかし、抽象的な事象については言語のみによる理解が多い。つまり、前者が右脳・左脳の 働きによるものであり、後者が左脳の働きに偏っているものといえよう。それは学習スタイルが前者で は五感全部を通しての体験によるものが多く、後者では「聞く」「読む」という言語系によるものが多いか らであろう。  前者に属する遊び・芸事・スポーツ…は分かり易く、後者に属する教室での学科は飲み込み難いとい う人がいる。むろん授業についての期待感や馴れ…などによる相違もあろうが、左脳・右脳の協調作業 の少なさが、分かり難い、覚え難い、好きになり難い…につながっていないだろうか。  同じことが“創造”についても言えないだろうか。そうして“創造とは難しいもの…”“創造は自分 には無理…”という思いを多くの人の心に作り上げてきたのではなかろうか。 もともと、“創造”は猿が始めたことである。もし猿が「過去の成功を繰り返し、過去の失敗を避ける学 習」のみを続けてきたならば、決して人間には進化しなかったであろう。  創造の発端は“類比”である。“赤くて丸いリンゴは美味い。この実も丸くて赤いから、多分美味い だろう”という単純・勝手な推定である。そこからいろいろな創造的思考が発達して、現代ではさまざ まの創造理論や創造技法が提唱されている。「創造科学」とも称されて、高尚なものと思われ、敬遠され るようにもなった。猿は知らぬ顔をして見ているだけである。  これらの創造関係の諸理論、諸技法を絵や図(視覚的イメージ;右脳)と解説文(言語;左脳)と合わ せて説明したり、主張したならば、大方の全体的理解を助け、個人的主張を導き出すのに役立つのでは ないかと思い、この『図解 創造理論』をパソコンしてみることを思い立った次第である。できれば、 読者の異論・別論を寄せていただき、“異質結合”により更に新しい見方・考え方を創出していきたい ものと願っている。 1998年2月12日 研究所にて

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